池田満寿夫と増穂登り窯 

2008年「池田満寿夫 知られざる全貌展」毎日新聞社
増穂登り窯代表 太田治孝寄稿文より

「太田君じゃあ、明日ね」。夜9時30分。池田氏と交わした電話の内容である。これが最後の会話となってしまった。

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80(昭和55)年秋、新宿のホールで池田氏の講演会が開かれた。この時の担当者が私だった。版画専門誌「版画藝術」などが「版画ハガキコンクール」を開催した。ハガキサイズの中で何が表現できるか。審査員の池田氏に講演もお願いした。

入場希望者を募集したところ、1000人以上の申し込みハガキが届き、池田氏の人気ぶりにはさすがと驚いた。当時、池田氏は映画「エーゲ海に捧ぐ」完成後、米国を引き揚げて日本でバイオリニストの佐藤陽子氏と暮らし始め、人気が絶頂のころであった。版画家だけでなく、芥川賞作家、映画監督として世に知られるようになっていたからであった。 会場に女性週刊誌の記者が何人か取材に来た。当日来場した佐藤陽子氏とのツーショットを撮るためだった。

この池田氏との出会いから10年後に池田氏の陶作品を焼成することとなった。そのときは夢にも思わなかった。その後、私は惹かれ始めていた陶磁器関係の仕事を本格的に学び、独立した。

陶・アマチュアコンテストの審査

88(昭和63)年、池田氏と三浦小平二氏に審査員をお願いした「ぐい呑、ちよこコンテスト」を企画した。『版画藝術」を発行している阿部出版はこのころ、焼き物専門誌として季刊「炎芸術」を発刊。魅力ある内容とするため、コーディネーターとしても活動していた私にアイデアがないかどうか相談を持ち掛けてきたのだ。アマチュアを基盤とする陶芸ブームを予想していた私は、審査を公開とする「アマチュア陶芸コンテスト」の創設を提案し、企画通りコンテストが開催された。

コンテスト応募者からは「登り窯か穴窯で薪焼成するチャンスが欲しい」との要望が寄せられた。しかし、プロの陶芸家はアマチュアに簡単には窯を開放してくれない。そこで旧知の池田氏に相談した。熱海市に「満陽工房」を設立、ガス窯と電気窯を使って活発な制作活動をしていた池田氏は私の築窯計画に協力を約束してくれた。

アマチュアだけを対象にした陶コンテストは第1回から話題となり多数の応募があった。造形的作品は池田氏が、伝統的作品は三浦氏が審査をした。最優秀作品の決定には2人の意見が一致、票が割れると考えていた関係者を驚かせた。
このコンテストは、現在も「全日本アマチュア陶芸&ガラスコンテスト」として続いている。

登り窯、穴窯の築窯

登り窯、穴窯の築窯条件を満たす場所はなかなか決定しなかった。友人のアドバイスもあり、現在の地、甲府盆地南に位置する、南アルプス節形山の中腹、氷室神社の参道、山梨県南巨摩郡増穂町平林、標高800mの地に決定した。

目前には美しい富士を臨む。「ダイヤモンド富士」として有名なロケーションだ。
「富士は絶対に描かない」と言っていた池田氏が、「富士百景」シリーズの陶板を制作することになったのも、制作、窯焚きなどで、毎日富士山の美しい姿をこの窯場から 見ることになったからだった。

まず、登り窯と穴窯を築窯した。「ぐい呑、ちょこコンテスト」に応募してくれた人々に声をかけて、薪焼成を目的とする会員組織を立ち上げた。池田氏が参加していることもあり、30人余りの会員はすぐに集まった。造形から薪づくり、焼成、窯出しまで一環して行える増穂登り窯が開窯した。90(平成2)年のことだ。

池田満寿夫の陶

池田氏の陶制作のきっかけは、伊豆の岩殿寺窯である。その後、熱海市下多賀に満陽工房を設立した。

池田氏のこのころまでの焼成方法は、電気窯とガス窯であった。満陽工房には巨大なガス窯、1立方mの電気窯、真空土練機、1平方m以上の陶板が作れる電動のタタラ機など充分な設備が整っていた。

縄文野焼きに興味を持ち、岩手県藤沢町で岡本太郎、辻清明らと野焼きイベントに参加していた池田氏は、縄文へのイメージから日本回帰が始まっていた。ところが、増穂登り窯で池田氏の作品を薪焼成することにはなかなか腰が重かった。

ある時、満陽工房に展示されている陶作品の中から釉薬の発色が中途半端で、表情が弱く、イマイチの作品を再度穴窯で焼成することになった。電気窯とガス窯で焼成した釉薬が掛かった作品や化粧土を掛けた作品などだ。
5、6点を増穂登り窯に運んだ。穴窯と登り窯に窯詰して60〜80時間還元焼成した。 ほとんどが酸化焼成の作品であったので、還元薪窯焼成で大きく変化し、強い表情の作品となった。「飛び上がらんばかりの出来上がりであった」「トルコブルーや青銅の色が なんともいえない自然灰や赤銅色に変わり、復活していた」と池田氏はもらしている。

これがきっかけとなり、91年ごろから頻繁に薪窯を使用することとなった。
池田氏のスケジュールの都合で、制作は熱海の満陽工房で行い、増穂登り窯への移動中の安全性を考え、作品は800度で素焼きをして運送した。作品は増穂登り窯で開梱、釉薬、化粧土、ベンガラ、呉須などを使用して完成、窯詰め、焼成となる。
池田氏の作品は、陶土20kg以上の作品が多い。高さも50cmから100cmサイズにもなる。
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この方法では焼成回数など、とても難しいことに気付いた。四方八方を焼成すると、全面に灰をかぶり、火色も重なってしまい、作品の造形もシャープさが失われ、池田氏の好む作品とはならない。穴窯や登り窯での焼成については満足してはくれなかった。

炭化窯の築窯

池田氏は色の原点として黒色を求めた。陶の場合、通常は黒の釉薬や黒化粧土、マンガン入りの黒色陶土などを使用するが、池田氏の場合、炭化焼成による炭素分を付着させる自然黒色を求めた。ー般的な炭化焼成法は作品を鞘に入れて空気を遮断して焼成する。

しかし、池田氏の作品のサイズからして、とても鞘に入れて焼成は出来ない、そこで1立方メートルサイズの炭化窯を築窯、窯全体を燃焼窯と考え、炭素分を作品に付着させた。炭化させるために空気を完全に遮断して焼成するので、窯圧が高くなり、 1050〜1080度の温度でありながら、1200度以上でガラス状になった釉薬にも炭素分が影響することがわかった。

雪の降る寒い冬の季節に来窯した池田氏と何人かの仲間が、炭化焼成にチャレンジしたが、3、4回の失敗の後、やっとのことで炭化に成功した。この焼成方法は池田氏のお気に入りとなり、「神々の器」シリーズ、そして「般若心経」シリーズ作品の《心経 陶片》《心経硫》《心経碑》の制作に結びつく。

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縄文野焼き

90(平成2)年、岩手県藤沢町での縄文野焼きサミットに参加した池田氏は「数千年前の縄文土器の土を使い、焼成法を再現した野焼きは、私に時空を超えた古代人の創造力の素晴らしさを強烈に認識させた」と「陶 Vol.5 池田満寿夫」(京都書院、 1992年)の中で述べている。

翌年、同じ土を取り寄せて作品を作り、再び藤沢町で野焼きをした。ところが、16点中ほぼ原型を保ったのは4点に過ぎなかった。他は炎の中で破壊されてしまった。
これらの反省から、シャモットの多く入った陶彫用陶土を使用して制作を始めた。 92年、熱海市の海岸で野焼きを行った。ベンガラを作品表面に施して表情を付けた。 この野焼きは成功であった。この時点で池田氏は陶制作では縄文野焼きを指向することになった。それまでにさまざまな焼成方法を試み、窯の種類によって焼成が異なってくるのを確かめ、好みの焼成方法が決まってきたようだ。その後、再度熱海の海岸で 野焼きの計画を立てたが実行されなかった。

八方窯構想

池田氏は穴窯や登り窯での焼成では満足しなかった。作品自体が焼成により薪灰が掛かるなど相当変化してしまい、予想外の結果となってしまうからだ。通常、薪窯を使う陶芸作家は薪灰が作品表面に十分にかぶよう窯詰めの仕方に神経をとがらせる。
作品表面に掛かった灰が溶けたり、色が変化するなど窯変に価値を見るからだ。備前や信楽、伊賀など焼き締めの産地では当たり前の発想である。しかし、池田氏は違った。 信楽焼のような灰かぶりの作品や特定部分のみ赤く発色する作品は嫌いだったのだ。 登り窯で灰かぶりの作品を焼成したことがある。私はかなり良い焼き上がりだと確信して、作品を熱海へ届けた。しかし、池田氏は「ウーン」と言って不機嫌となり、困ったことがあった。何回か薪窯焼成を繰り返すうちに、だんだんと目標が定まってきた。 その条件とはー

1.ー度の焼成で、全面を平均して焼き上げたい。
2.1〜2mの高さの作品を立てたまま焼成したい。
3.窯の中で制作してそのまま焼成したい。
4.温度は1200度まで昇温する。
5.一晩か二晩で焼成を終了する。

池田氏好みの焼成はおおよそ以上の条件を満たす窯なのが見えて来た。可能なのだろうか? 池田氏と築窯者と三者で検討を始めた。

池田氏が希望する条件の薪窯では焼成効率が悪く、窯焚きが複雑となることが想定された。図面を作ると、大正時代から昭和初期に築窯された大型の石炭窯に似ていた。
10カ所以上の大小焚口があり、斜面でなく平地に築窯する大型の単室窯となった。 解決すべき問題点は山積した。昇温が可能なのか。薪はどのくらい必要とするか。窯焚人数はどのくらい必要なのか。窯詰に無理がないか などなどである。

そして1回の窯焚きでどのくらいの経費を必要とするかも重要な問題点だった。とても通常の経済原理では解決しない点ばかりであった。
しかし、池田氏の情熱はこれら難問を全て解決してしまった。平地に築窯するために 高い煙突に加え、本窯と煙突との中間に1立方mの火袋部屋を作った。これで炎の引きと窯内の蓄熱問題は解決した。薪の使用料や人件費などは、池田氏の作品を販売して 捻出することで合意した。 築窯レンガは、耐火レンガではなく、焼き上がりの火色が出やすい「トンバイ」レンガ(耐火レンガよりシャモットを多く含み、1300度くらいの耐久性のレンガ)を使用した。
焚口は10カ所以上あるが、常時使用する焚口は5カ所、しかしこの5カ所から同時に投入する薪の量は他の薪窯の約5倍となることが予想された。 山梨県は森林が豊富で、赤松などの間伐材を必要量準備することは可能だ。池田氏 は熱海市と東京・四谷の事務所、そして実家の長野市、山梨県増穂町の窯場を回りながら全国へ出かけて行った。

八方窯築窯

93(平成5)年6月築窯が始まった。 窯の外壁は自然石で固めることにした。窯場裏は岩魚の釣れる川があり、適当な石は豊富にある、しかし石集めにはかなりの時間がかかった。煙突は6mの高さとなっ た。外壁は耐火セメントも使用して強固に築窯した。幅3.5m、入り口から煙突まで6m、高さ2mの大型単室窯となった。

増穂登り窯には八方窯を含め、8基(他に登り窯、割竹式穴窯、炭化窯、赤絵窯、単室塩釉窯、地下式穴窯、小型穴窯マイキルン)の薪窯があるが、八方窯は増穂登り窯で 最大の窯となった。 焚き口は正面に、窯詰めと薪投入のため大きく開放出来る、人間2人が立ったまま同時に入れるサイズとなった。左右はそれぞれ2カ所、ロストル(空気取入口)の上に薪投 入の奨き口がある。 正面と左右各2カ所、通常時5カ所から薪投入する設計となった。

また池田氏の考え通り、天上部分に左右各3カ所合計6カ所の焚き口も付けた。これで縄文野焼き(?)が窯の中で、安全に焼成することが可能となった。

ー般の登り窯や穴窯は斜面に築窯し、入り口の炎を煙突まで流して作品を焼成する。天井から床までの高さは温度差をなくすため、あまり高くはない。これらを“無視”した八方窯が造られた。
ここまでくると、池田氏のペースとなり、それまで作品のサイズは窯に合せて1m以内であったが、突然1m以上の大作となっていった。 窯の名を付けることとなった。四方八方から薪を投入するため八方窯と命名した。正式には「満寿夫八方窯」となった。

古代幻視

「私の陶芸は版画のコピーではない」と池田氏は語っている。池田氏の版画は欧米の芸術から多大な影響を受けていたが、陶芸を始めてから池田氏の思考自体が変わった。 日本の伝統に対する関心が高まって「日本回帰」が始まり、縄文野焼きの経験から古代原始への回帰とつながった。陶芸の魅力として版画と違い、インスピレーションと成り行きで手が自由に動くことを挙げている。
また、陶の制作に当たり、陶土を焼成してなめらかで艶ある肌に変質させることに 疑問を持っていた。薪窯に挑戦し、荒々しい岩石の肌に表現を求めた。

八方窯の初窯は「古代幻視」シリーズの焼成となった。焼成は予定通り、中性から還元炎で50時間、1200度で無事終了した。
第1回目の窯出し日に池田氏は仕事先から深夜窯場入りした。「すぐに見ますか?」 と尋ねると、「明日の朝でいいヨ、今見ても同じだから…」とサラリと答えた。実は、 私は池田氏が到着する前にレンガのスキ間からライトを中に入れ作品を見ていた。灰があまりかぶらない、さっぱりとして土味の残ったゴツゴツした焼き上がりであった。池田氏の造形をシャープに力強く見せていた。今までの薪窯焼成とはかなり違っていた。 私としてはもう少し焼き込んで、しっとりさせたかったのだが…。
早く窯出しをして、池田氏の感想を聞きたかったが、いつものように熱燗でカンパイしてゆっくり眠った。

早朝9時から窯出しとなった。
池田氏とカメラマン、スタッフなどが見守る中、窯出しとなった。私の心配をよそに池田氏は大満足であった。安心した。火前、火裏のない、土あじの残るスッキリとした 焼き上がりであった。
「版画から遠く離れて」「今や作陶は私にとって有力な表現手段に なった」「悠久な時間の流れを表現したいと考えるようになったからである」と池田氏 は述べている。

東京の百貨店、高島屋日本橋店で開催された「池田満寿夫作陶10周年 古代幻視と富士百景」展は成功だった。「富士山は絶対に描かない」と言っていた池田氏が、陶板画 として富士山を表現したのだ。窯焚き中、毎日見える窯場からの富士山に感動しての制作だった。窯場から見える富士山は「北斎」の富嶽三十六景、観沢宿、「近藤悠三」の富士と山々、そして「満寿夫富士」となった。池田氏は言った。「増穂町平林からの富士は日本一だ」と。

八方窯と塩釉焼成

05年11月3日、熱海市にある旧池田邸が「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家」として開館した。オープンの日、佐藤陽子氏から1通の手紙を受け取った。それは92年4月18日、私が長崎県佐世保市のハウステンボス町から池田氏へ出した速達だった。オープンのため旧池田邸を整理していて黒いカバンの中から手紙が出てきたという。手紙には作品に着色する色呉須と塩釉について調査したことが書かれていた。
私は忘れていたが、この時、池田氏は塩釉に興味を持っていてその焼成法について調査するよう私に指示したのだ。 焼成中、塩に色呉須を交ぜて薪投入と同時に作品にぶつけて直接投入する方法で作品を焼成した。八方窯2、3回目の焼成の時だった。これが八方窯で塩釉焼成した初めで、その後2、3度テスト的に焼成をした。今回、うっすらと塩釉効果の出ている作品が出品されている。古代幻視シリーズの《パルミュラ神殿》である。作品下部の白っぼい部分が塩釉である。

般若心経

93(平成5)年11月頃、池田氏から「相談があるので熱海へ来て欲しい」と連絡が入った。 – 京都の出版社から「般若心経」をテーマにした版画シリーズの制作を依頼されているという話だった。「ヨーロッパではシャガール、ルオーなどが聖書、キリストなど宗教をテーマにした連作の版画はいくつかある。しかし般若心経は物語がない経文だ。それを造形化、視覚化することは不可能ではないか」と池田氏は考えたようだ。
「とても版画では表現出来ないが、八方窯で「古代幻視」シリーズを焼成中、あの炎を見て考えが変わった」と言った。
池田氏が陶(土)を手がけた時、抵抗なしに日本回帰が始まったと言っているが、まさか、仏教にまで手を広げるとは思っていなかった。 縄文を意識したのは、神とか、仏教とかでなく、自然との共生から縄文人が感じていた精霊(スピリット)からだと私は考えていた。 池田氏流の、その意識は“土”の文明に原点がある気がしていたのだ。
「般若心経を陶(土)で造形表現する」。池田氏は宣言した。まず本やビデオなどで勉強を始めた。写経も始めたが、50号サイズの和紙に2、3枚書いてすぐにやめてしまった。 池田氏はどんな時もあまり準備をしない。そのときのインスピレーションを大切にして、素早く制作に入る。この制作方法は、下準備をする側には大変だった。仕事の流れを読み、2、3パターンを事前に予想して準備をするしかない。使用されず無駄になることもあった。「般若心経」をテーマにしたが、制作の方向が見えてこない。まず小作品は後にして、大作から制作することとなった。

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どんな造形になるか、興味津々だった。炎に包まれて窯変していく作品に窯の中で、仏陀が苦行している姿をイメージしたのだろう。般若心経の仏塔は「古代幻視」シリーズで採用した方法で成形した。
陶土で制作した仏の顔を石膏で型をつくり、多数の顔形を制作した、この仏の顔を仏塔作品にコラージュしたり、スタンプとした。

増穂登り窯の窯場から、NHKのBSカルチャー館「池田満寿夫・還暦八方窯焼成」が2時間生放送された。池田氏の還暦を祝い、増穂登り窯の会員以外にも多くの池田氏の友人が八方窯での焼成に参加した。
私の当時の記録は以下の通りだ。 飯田善國(彫刻家)、高さ60cmほどの角形花器。石崎浩一郎(名古屋造形大学教授)、 岩のオブジェ。井上武吉(彫刻家)、球体のスカイホール。勝井三雄(グラフィック・デザ イナー)、垂れ下がる陶板に銅、鉛、鉄などの金属を溶かし入れたオブジェ。ジミー鈴木(カリフォルニア州立大学教授)、エロティックな片手サイズの香合。瀬木慎ー(美術 評論家)、ピンポン玉を重ねたような、《男岩・女岩》というタイトルのオブジェ。中村錦平(陶芸家・東京焼窯元、多摩美術大学教授)、高圧線使用の碑子のオブジェの再焼成。 松永真(グラフィック・デザイナー)、角型鉢と丸型鉢。米倉守(美術評論家)、クマのオブジェ。李麗仙(女優)、特大茶碗…。それぞれの自宅や工房へNHKのプロデューサーと訪問して制作していただいた。”それらを、池田氏の般若心経仏塔10点と共に焼成した。

窯出し日に飯田善國氏は、「マスオの作品はオブジェ焼きだ」と発言した。佐藤陽子氏が陶磁器製のバイオリンで演奏、最後にパエリア作り世界ーのシェフ村田氏が100人前のパエリアとスペインオムレツ、スープスパゲティーで祝った。

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般若心経・大仏塔制作

94年夏、大仏塔4体の制作が始まった。
大仏塔以外の作品のほとんどは、熱海の満陽工房で制作し、素焼きして増穂登り窯へ移動させた。だが、100〜200kgの重量になりそうな大仏塔については池田氏は八方窯の傍らで制作した。
まず池田氏専用の陶土 20kgをタタラ機で7〜10cmの板にした。この板を積み上げていくタタラ作りの手法で 高さ150cmほどに成形した。焼成までの日数は少ないため、なんとか完成させなくてはならない。 考えた挙げ句、大仏塔の中に“骨”を入れることとした。動かすと崩れてしまう可能性があるからだ。そのまま作品の中に残っても問題のない材質でなくてはならない。中細の竹の節を抜いてヒゴとして入れた。作品を支えるために何本も差し込んだ。増穂登り窯の窯場は川沿いにあり、タ方になると十分な湿気がある。
大仏塔は加湿乾燥の条件の中、1カ月間でヒビもほとんど入らなかった。 その後、池田氏は大仏塔にベンガラで般若心経の経文を書いた。200kgもの重量の作品を人の力で窯詰めしなくてはならない。八方窯の入り口は「ロストル」(空気取入ロ)の高さ分50cm上った部分が窯床となっている。入り口まで上り坂のスロープを作り、大仏塔土台の板ごと、エジプトのピラミッドの石の運搬と同様、ころがして入り口まで動かした。
八方窯の入り口の高さは150cm、内部の高さは180cmある。作品が乾燥して7、8cm縮む計算で制作したが、5、6cm大き過ぎて入り口から入らず、しかたなく池田氏の了解を得て先端の一部を切り落とした。窯詰めには1日以上かかった。

焼成は野焼き風に焚きロを開けたまま行われた。この焼成について池田氏は「池田満寿夫の造形 般若心経」(同朋舎出版)の中で、「炎につつまれ窯変していく仏塔やそこに書かれた心経の経文の姿は息をのむほど神聖で厳粛だった。まるで仏陀が火の中で苦行し、浄化されていく光景を見ているようだった。般若心経を陶で造形しようと考えた真意が、その光景を見ることによってやっと分かったのである」と書いている。

この大仏塔の作品は、95年5月、京都市の大丸ミュージアムKYOTOで開催された 「池田満寿夫・般若心経の世界展」会場に八方窯から直接搬入された。 初日に来場した池田氏の友人伊勢崎淳氏が「陶芸家ではできない仕事だ」と語った。 また、池田氏の他界後、「太田さん、般若心経シリーズは池田さんの代表作だ。良い作品を残した」と話した。私は胸が熱くなった。

「般若心経」シリーズの完成と写経

心経シリーズ制作の最後の瞬間に画家としての池田氏のイマジネーションで、仏画 陶板と心経陶板が完成した。また、仏画陶板をモチーフに《如来》《菩薩》のリトグラフ2点も作った。池田氏は93年の「古代幻視」シリーズの作品完成後にも、古代幻視をモチーフに6点のエッチングを制作している。ーつの作品を制作した後、別の手法による 作品を作るというプロセスは、池田氏に強い影響を与えたピーター・ヴォーコスも同じような方法を取っていると思う。
池田氏は65年、ニューヨーク近代美術館での個展開催を機に渡米した際、ジミー鈴木氏の紹介で、ピーター・ヴォーコスに会った。米国滞在時代、交際は続き、「陶に対する興味を持った」と話していた。池田コレクションの中にもヴォーコス作品が2点入っていた。

池田氏、佐藤氏と一緒に京都大丸へ打ち合わせに行くことになっていた。 阪神・淡路大震災が起きたが、5月下旬の開催が決定した。開催を前にして、清水寺で 「特別写経奉納会、池田満寿夫・般若心経in KIYOMIZU」と名付けて阪神・淡路大震災 の義援金集めと犠牲者鎮魂のイベントをすることになった。

ライトアップした清水寺の 本堂内陣で、縦4.3m、幅7.1mの1枚漉きの越前大鵬紙に池田氏が般若心経、276文字を墨で描いた。「震災後、芸術家として何か役立つことをと思いついた。鎮魂と被災者 への励ましに、一字ー字心をこめて写経した」と池田氏は語った。

「池田満寿夫・般若心経の世界展」は、その後1年間全国を巡回した。現在このシリーズは三重県孤野町のパラミタミュージアムに常設展示されている。今回その一部が出品されている。

最晩年の陶「土の迷宮」シリーズ

池田氏の制作方法は、基本的にタタラづくりだ。
シャモットの多く入った専用の陶土を厚さ5〜8cmのタタラにして、5〜7日間乾燥させる。この陶土をイマジネーショ ンで立ち上げていく。あるいは土の塊から「土」を掘り出し、造形を決定する。
「土の迷宮」ではタタラで立ち上げていた造形の上部に筒形の花器とか鉢を接着させて完成させた。強く伝統を意識した作品になった。素焼きした作品を増穂登り窯に移動、白マット釉、銅ベースの釉などを筆で着釉した。通常、陶芸家は釉を筆で直接”塗る”ことはあまりない。これは池田流だ。
このシリーズは97年2月上旬、節分の日に八方窯で焼成した。

96年秋頃から池田氏の体調が良くなかった。「右足がなんとなくツッパルようでおかしい」と話していた。 熱海市内の病院に12月中旬から下旬まで入院した。病名は不明だったが、「ゆっくり休めた」と話していた。

池田氏は、97年4月、長野市にオープンする「池田満寿夫美術館」のための陶の新作にとりかかっていた。 10点の大作だった。満陽工房も熱海市内とはいえ、冬はかなり寒い。池田氏は制作する時は全カだった。

同美術館が発行する図録に新作を掲載する。その撮影のためには2月中旬までに陶の新作が完成しなくてはいけない。そこで「節分の日、、八方窯焼成となった」。スタッフなど6、7人を集めて焼成した。この頃、池田氏は「週刊新潮」に「人間のすべて」 を連載中で、この前後の動向が詳細に書かれている。

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没10年

「芸術はイマジネーションを形によって現すもの」「造られた作品は残っていく」「その評価はしがらみのなくなる50年後かな…」。生前、池田氏はこう語っていた。
版画による表現手段は国際的に評価された。文章などでも芥川賞を受賞して評価された。そして最後に陶による表現にチャレンジしていた。
四方八方から薪を投げ込む奇想天外な窯を築窯した池田氏は「10年経ったら陶芸界をひっくり返す」と大言壮語した。満寿夫八方窯は“八方破れ”になるか、“八方好し”と なるか、滅法面白い窯となった。焼成は縄文焼きを意識したことにより、間伐材を使用した、自然との共生となった。 今後も八方窯は池田芸術の自由な精神を「土と炎の造形」で発信続けるだろう。しかし、すべてが分業化してしまった現在、多彩な表現手段を使い、イマジネーションを形にした池田芸術を誰が評価するのであろうか? (増穂登り窯主宰)